諸葛恪

諸葛恪の伝記は漫才のような掛け合いが多く面白い。有名な諸葛子瑜之驢の他にも機転の良さを示す逸話が多々あり、なるほど「頭の良い」人間であったことが分かる。

しかしそんな利口な諸葛恪が権勢を握った結果は、悲惨なものとなった。不要な戦役を起こすも戦果を上げられず、独断専行を繰り返した結果誅殺され、一族も皆処刑された。

なぜ諸葛恪はその「頭の良さ」にも関わらず失敗したのか。彼は確かに声望が高かったが、一方で彼の能力に疑問を投げかけ、彼の失敗を予見した人もまた多かった。

すなわち父である諸葛瑾は諸葛恪が家を潰すことを予見していたし、叔父である諸葛亮陸遜への書簡で甥の人格への危惧を表している。また、陸遜も諸葛恪の性格に苦言を呈していた。

そして、諸葛恪に後事を託す孫権も、彼に疑問を抱いた一人だった。孫権はその時既に耄碌していたが、それでも諸葛恪の欠陥は見落とさなかったのだ。孫権が諸葛恪を否定したことは、劉備馬謖を否定し、曹叡が浮華の徒を嫌ったことと通底する。三国の皇帝が揃って嫌ったものは何か。それは軽薄な知に他なるまい。

諸葛恪の知恵は、ただ相手を論難するための道具であり、自らを飾り立てるものでしか無かった。ゆえに諫言は自らの価値を貶めるものでしかないとし、受け入れることもできなかったのだ。

諸葛恪の失敗を暗示する一つの逸話が、呂岱との会話である。後事を託された諸葛恪に、呂岱は、なにか物事をやる前には十回考えてからやるようにと忠言した。諸葛恪は、論語でも二回考えれば十分という、十回考えろというのは私を馬鹿にしているのか、と取り合わなかった。当時の人々は、この諸葛恪の受け答えを当意即妙と讃えたというが、その後を知る者からすれば、ここにこそ諸葛恪の失敗はある。国事を担うということは、重責を伴うものであり、熟慮して当然なのだ。二回考えれば十分といった諸葛恪はけして果断なのではなく、ただ無責任であるにすぎない。

 

さて、今日の日本にも諸葛恪はいるのだ。詭弁を弄し、相手を「論破」しては自らを賢しらに見せる。彼らは自らの論敵を倒すことしか目的に無いので、彼らと議論してもそれが深まるということは無い。全く不毛というほか無い。

そも賢者は愚者に見えるという。煌びやかな「知」に騙されることがないよう、注意しなくてはなるまい